【アラベスク】メニューへ戻る 第15章【薄氷の鏡】目次へ 各章の簡単なあらすじへ 登場人物紹介の表示(別窓)

前のお話へ戻る 次のお話へ進む







【アラベスク】  第15章 薄氷の鏡



第3節 狐と鶴 [5]




 ユンミは、外で蹲る美鶴を招き入れ、適当に飲み物を注文するように告げ、好きなところに座っていればいいとは言った。だが、料金を払ってやるとは言わなかった。
「言われなかったんだな?」
 確認するような言葉に美鶴が黙っていると、また嗤い声がした。
「つくづく馬鹿な女だ。誘われれば同時にすべての世話をしてもらえるとでも思っているのか? これだから女は嫌いだ。頼る事を当たり前のように考える」
「わ、私は別に」
「別に、何だ? 別に自分で払うつもりだったのか?」
「それは」
「入店料に席料、飲み物代。ちなみにウーロン茶一杯がそこらの喫茶店と同じ相場だとは思うなよ。ウーロン茶三杯に千円札を出しておつりが来るとは思っていないだろうね」
 美鶴は言葉が出なかった。
 私、ひょっとして、とんでもないところに飛び込んでしまったのだろうか?
 母が水商売をしているからこのような世界は身近に感じているつもりだったが、感じるのと知っているのとでは別の話だ。美鶴はこんな妖しげな世界の事など、何も知らない。
「どこまでも甘い女だ。だから女は嫌いなんだ」
 今度は言い返せない美鶴の頬を横から眺め、やがて霞流慎二はそっとその肌に息を吹きかけた。
「だが、俺を追いかけて店に飛び込み、ここまでやってきたのは認めてやろう。その度胸に敬意を表して、今回だけは助け舟を出してやる」
「助け舟?」
 声音を明るくした美鶴の頬に唇を当てる。
「売っているのはマッチではないと言ったな」
「え?」
「では俺に、春を売ってはくれないか?」
「え? 春?」
 春? 春を売る?
 売春。
 途端、美鶴は身を大きく捻って霞流を引き剥がそうとした。だが相手は腕に力を込め、逆に一層後ろから押さえつける。
「暴れるなよ」
 言いながら唇を項へ移動させる。
「霞流さん、やめてください」
「やめろ? ふん、そんな言葉が吐ける分際か?」
「やだっ」
 唇が項から頬に戻る。思わず顔を背ける事で曝してしまった喉元を撫でられる。
 冷たい唇だ。まるで氷を押し付けられているかのようで、外気から受ける寒さを助長する。
「どうした? 震えているな。寒いのか? なら暖めてやろう」
「やめっ」
 必死に藻掻(もが)くが、霞流を振り解く事はできない。痩せてはいるがやはり男性といったところか。身長差もある。
「お前のような貧弱な身体など、片手で充分だな」
 言うなり右腕を強く美鶴へ巻き付ける。左手を空にしてみるが、美鶴は相変わらず抜け出す事が出来ない。
「意外に綺麗な肌だな。井芹(いぜり)が褒めたのもわかる」
「やめて下さい」
 声が擦れる。
 どうしてだろう。たとえ人気の無い裏路地の建物の間とはいえ、大声をあげれば誰かに聞こえる可能性だってある。なのになぜだか美鶴は声を張り上げる事ができない。
 こんなところを誰かに見られるのは嫌だという羞恥心からか、それとも、見つかって霞流を犯罪者にしてしまうような事はしたくないという甘い優しさからか、それとも、本当はそれほど嫌がってはいないからか。

「こうやって簡単に許してしまうんだな」

 違うっ!
 美鶴は一際大きく身を捩る。
「やめてくださいっ!」
 少しだけ声を大きくし、襟元を擦る霞流の左手を掴む。
「本当にやめてください」
「相変わらず初心(うぶ)だな。たまにはそういう相手も悪くない」
「離してください」
「離せだと? それは本心か?」
「え?」
「本当は俺にこうされたいと思っているんじゃないのか?」
「何を馬鹿なっ」
「俺にこうされたいんだろう? だってお前は俺の事が好きなんだからな」
「そんな、好きなのとコレとは別問題です」
「どうだか。女はそんな綺麗ゴトを言いながら、実のところはフシダラだ」
「そんな事ないっ」
「そうか? 本当は俺に()れられたいんじゃないのか? キスぐらいはしてみたいなどと思っていたりするんじゃないのか?」
「キッ!」
 美鶴は叫び声をあげる。
「キキキッ キスだなんて」
「ふーん、そういう反応するところを見ると、未体験か?」
「あ、当たり前です」
 顔を見られていなくてよかった。でなければ嘘だとバレていただろう。瑠駆真の言うように、自分でも嘘をつくのが下手だと自覚はしている。
 なんとか乗り切ったと胸を撫で下ろした為、油断してしまった。
「あの金本(かねもと)山脇(やまわき)といった奴らとも? した事は無いのか?」
「っ!」
 言葉に詰まってしまった。霞流の左手の動きが止まる。
「ん? 何? した事あるワケ?」
「ああ、ありませんっ!」
 慌てて否定する声が上擦る。明らかに不自然だ。背後で霞流が口元を歪めたような気がした。
「そうか、やはりな」
 一人で納得し、含み笑いを漏らす。
「あれほど熱烈に想いを寄せているのだから不思議でもないが、やはりそうか。で、どちらとだ?」
「何を勝手に納得してるんですか?」
「どちらとキスをしたんだ?」
「どちらともしていませんっ!」
「嘘は嫌いだ」
 言うなり左手で上着の裾を捲る。前を留めていなかったコートなど、何の障害にもならない。トレーナーの裾は短く、潜り込ませるのは造作もない。続いて下に着ていた長袖Tシャツの裾を、ズボンから引っ張り出す。ゆっくりと掌を中へ潜り込ませる。
「ヒャッ」
 直接肌に触れられるその冷たさに、美鶴は思わず奇声をあげる。
「冷たい」
「俺は、嘘が嫌いだ」







あなたが現在お読みになっているのは、第15章【薄氷の鏡】第3節【狐と鶴】です。
前のお話へ戻る 次のお話へ進む

【アラベスク】メニューへ戻る 第15章【薄氷の鏡】目次へ 各章の簡単なあらすじへ 登場人物紹介の表示(別窓)